獅子舞を伝えたふるさと

平福の歴史
江戸期
台風でルソン島へ流された船乗り、3年かけ自力で生還!
平福村は干拓地で、1624年(江戸時代初期)池田藩の藩営新田として開発され、岡山市平井と玉野市大藪から入植した人々によって開拓されました。当時の古地図に「備前国平福村」の名があります。人々は土地を拓き、稲を作り、藩の指導で商品作物の綿花を作っていました。綿は塩害に強いということで選ばれたようですが、湿気を嫌うため低い土地柄には不向きでした。そのため湿地を上げ(あがり)、畝(うね)を作りこれに綿を作付けました。
あがりとあがりとの間に用水路を兼ねた湿田(ざぶ田・又はど田)が残り、あがりとざぶ田が交互に連なっていました。このような田の配置は平福と尾上(現在の千鳥町辺り)に見られました。戸数に関しては昭和に至るまで、20年単位程ではほとんど変化が見られないような地域でした。
唯一の交通手段は「船」でした。お船入りと福島御番所*が近く、池田藩の米を大阪まで運んでいた時に台風に遭いルソン島まで流され、中国大陸を経由して3年後に帰ってきた住人もいたという記録も残っています。
* お船入り・福島御番所
1634年(江戸時代の初め)岡山藩主池田光政の命により福島土手に船入を造り、1666年通船の取締りのため福島御番所が建てられた。
1673年七日市(現岡山製紙敷地内)に藩船の船入場としてお船入が造られた。
明治・大正期
明治になり、御津郡福濱村洲崎(平福)となりました。主に農業で生計を立てており、明治中頃には綿花の栽培から稲とイ草・麦の二毛作に移りました。綿花を作っていたあがりはそのまま水田として利用され、ざぶ田から水田に水を汲み上げるために、足で踏んで回す水車(みずぐるま)が使われていました。水車は肩に担いで運びました。ざぶ田の稲刈りでは、刈り取った稲を置く竹製の丸い台や稲を運ぶ船のような物が使われました。子供達も農作業をよく手伝い、稲こぎ等の時には皆弁当持ちで出掛けました。また、当時は鉄砲撃ちが鴨を撃つ光景等も見られました。
